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忠実な“しもべ”と浮ついた黄色


 スカスカの黄色い歯を晒す近代性が、緑のターミナル中に行列積で表示された待機画面のパソコンの前に一人。冴えた認知戦での青春だった。俺の正義は湿っている。手に馴染まないマウスが俺の識閾下に落ちて1708秒。37.8度のニューロンの熱。コンソールに表示された文字が揺れると舌が冷えた。  俺の、スカスカの、原因。気取ったイエロー。

1. あなたはもっとジューシーなチキンに値する

 安っぽいブリーチで赤く染まった風呂場の排水口を見て、あなたは2度友人の嘘に巻き込まれたことに呆れる。サイアクだ。あなたはひどい目に遭ったとは思っていない。働きはじめるより前の自分を、被害者と呼ぶには幼すぎると思っている。今日も何てことないツラをして、自分の機嫌と課題の提出日を天秤に掛けて、差し迫った脅威を見なかったことにした。日和見主義にいつだって従属している、あなた自身それが美徳であると考えている。

 あなたの脅威モデルはフェアで平坦、いつも散々な目に遭っている。高校2年で惜しげもなくスカートを折ったのも、饒舌な割に自己言及には驚くほど鈍く回避するのも、知覚過敏な善性も、大人びてしまう度に裏目に出てることを識別できてしまうくらいに賢くて、いつも明後日の方向から、美意識に見合う言葉へ追いつくように、必要悪の隙間に住んでいる。

 あなたにとって、ほとんど人生は仕込みだ。相手の前では書いたり消したりできないことを知っているから、想定できてしまう悪意のほうが多い。あなたの従順なるしもべの文法は時折、輸入超過している。

 集約。集約。集約。電脳化の弊害を感じ、ざらついているマウスパッドが手汗の隙間で厚みを帯びた。ワイヤード、装飾帯(フリーズ)、首元の紐っけの蟻走感。いつも緊張が主観数秒遅くなってから生命線が見つかる。

 エンタープライズ、2、1、ゼロ。

 今回も同じ。パケットの分解精度に合わせた合法な障壁破り。チクっと胸が痛んでから、脊椎あたりの炭素性フレームに保護されたケーブルを外し、手元の飲み忘れた常温のコーヒーを飲む。安心するのは、ここに正確な湿度計がないからだ。ギシリ、オフィスチェアから立つ。

 安っぽい電撃を当てられたみたいに、太ももの関節が不随意反射で軋む。膝の裏で鬱血していた不揃いの血液が、重力に従ってドロリと下肢へ落ちる。重力だ。視界の端、明滅する蛍光灯が、拡張された視神経の焦点を、これもまた安っぽく羽ばたかせる。天才(ジィニアス)。意味もなく、昔の称賛の名残りが頭をよぎる。

 マンハッタン・階層(レベル)33、卵の殻みたいな素材で出来た都市の茶色が掠れた端っこのアパート、ボロい鉛筆の芯みたいな色の街並みにお似合いの出自、それが俺だ。下層にしか歯医者がない。降りるのは銃を持って降りるのと同義だ。義体の指には替えがあるが、エナメル質にはない。

 ゴキゲンなバーガー、偉大なるコーク、フレンチフライ。嫌な人生っても意外と救いはある。仕事終わりの一撃、スライスされた平凡、ポケットにしまったライムみたいな香りの口臭対策スプレーを口にシュッとやると、わざわざ引っ越してきたバーガーの近くの俺の穴倉が特別酷いものじゃないことを自覚する。バーガー屋の換気が裏路地に流れる風向きは、不動産資料に載らない。気象データと突き合わせて、この穴倉を選んだ。

 共同住宅の場合、配達を頼むのにもスマートさが要る。前払いで奮発したチップの通り、熱々でクシャクシャの紙袋が玄関にあることを喜びつつ、ワンセンテンスも必要ない速度で、半日ぶりの食卓を拾う。油の染みが内側から温度で透けた、素晴らしい紙袋の匂い。

 ワセリンみたいな手に粘つく湿度。環境工学が金融に寄って、安くて頑丈なシリコン合金が出来てから、原点からビーって伸ばしたみたいな線が空に向かって田舎から生えた。これを横に伸ばすと、大陸を横断する輸送プラントの出来上がり。

 こうして俺の青春は、この茶番みたいな資本政策を手懐ける為の、野蛮な外交と冷徹な議会審査の対象になった世界そのもののリソースを食い尽くす認知戦のなかで、義体化と電脳と同時に飼い慣らされた。

 大学の帰り道に一度だけ殴られた覚えはあるさ。それ以上の麻薬や暴力とは無縁だった。不快にも横目に映るそれらを遠景に、ターミナル経由で世界を学び、学資ローンを抱えたくせに、俯瞰した気分だけは手放さなかった。そういうスカスカの青春。

 そこが嫌な場所だったのは、潔癖を名乗るギャングの黄色いペイントが、あちこちに残っていたからだ。安いラッカー、雨で泣いた境界、毛羽立った縁取り。塗り重ねた層の段差が、照明の角度ごとに別の黄色を吐く。最古の層は、もう人間の判別では黄色じゃない。脳の側が黄色だと信じている。呂律が回らない。

 彼らの正義に近づくほど、いつも視界の隅にある汚れた黄色が目に入ってくる。キーシェイブ、善意で抽象語に丸められたニューロ・ヘッズ。街に出れば皆同じ。気取った正気にゃ、汗疹が出ちゃうさ、バーガンディ。

 幻肢痛は、ない手が痛むことじゃない。脳の側がまだ手があると信じている報告書を、現実と突き合わせ続け、そこに齟齬が記録されることだ。だから俺の湿った幻肢痛は、黄色くて怒りっぽい。

 しもべは嘘を吐かない。吐く必要がないからだ。俺が過去に選んだ順で、次を並べてくるだけ。バッファ340ミリ秒、その隙に世界はもう一度、俺好みへ丸められている。忠実というのは、主人の道理に仕えることじゃない。主人の手癖に沿うことだ。よく似ているから、平時は区別がつかない。外れた時にだけ区別がつく仕様で、外れないように出来ている。だから正確な湿度計は要らない。俺が湿っていると言えばその日は湿っていて、乾いていると言えば黄色い。潔癖を名乗るギャングと同じ塗り方で、脳の内側にも層が増える。最古の層は、もう俺の判別じゃない。

 摩擦のある主観の遅延。初めて電脳化したときの、まだ脊椎に残る興奮。そんなスカスカになるほど、昼食のケミカル臭が気にならなくなった俺の近代化。チェダーチーズ、マスタード、冷めたコーヒー。よく笑う人の顔が、視神経を通らなくなったのは電脳のせい。口腔衛生への強迫感で、俺の主体だけが原始の冴えた唾液に戻った。それが俺のフリーランチ。スカスカのイエロー。

 背景色だ、イエロー。お前の住む場所は俺の皮膚の表面にあって、爪の裏側にひそんでろ。憂鬱を表現する青さを喪失したのは、前頭葉の規格端子を弄るときに、パチッと文字通り火花が散ったからだ。俺の視界は黄色に曇った。共感覚のほうが先に拡張され、それから神経の機械化によって、素晴らしく解像度が上がった。

 行列積が得意になるだけで脳が冴えるんだ。味が鋭くなるんだ。何事もないところで擦り減らした跡が辞書を引くみたいに、最後まで俺の脳には可塑性があると楽観できる。微分可能性の朝だ。

 自我の重さに転んだまま風呂場。アフロ・ポップに潜り、冷水から脱すると抜群のブルー。ジーンズ、シリンジ、ビンゴ。フラットな配列、今日も密に冴えている俺。肉体はまるで12度の浴槽に沈んだまま、隣の家のパケットを跨いで電子メールが届く。

 ビープ音。日本製30年もののプリンターから印刷音が断続的に鳴り、ネット越しの視界にアイコンがポップアップした。宛名はアビー、髪を赤く染めたつれない態度のいい女。彼女らしく、通知の出方が妙に素直、毎度、経路が一つ多い。いつも通り、俺は背中にハッキリ嫌な汗。

 部屋の隅っこで、マゼンタのインクジェットが切れた警告音。最近の湿った天気を自覚させるみたいに印刷された紙が波打って出てきた。とびきり心臓が痛い。「アビーは良い女だから通話はしない」って仕事を持ってくる。あの女の、「そういう器用さ」が嫌いだ。

 器用さというのは、こちらの手癖を先に読んで、選ばせたい側にだけ一段浅い坂を作る技術だ。アビーは嘘を吐かない。吐く必要がない。経路を一つ多くして、通話をせず、一行だけ寄越す。俺が断らない形だけを残して、断る余地のほうは消さずに置いていく。残された余地は、こちらの自由の証拠になる。証拠になるように置かれている。だから毎回、自分で選んだ顔をして受ける。しもべと同じ設計だ。違うのは、あの女に主人がいないことだけ。

 あなたは私を何も知らないでしょ、って俺を突き放す様式美は、決まって上手く君自身が処理しきれない。凝り性、アブダクション、愉悦主義の俺とは普通に相性が悪い。過剰に装飾したがるポリシーは善悪の判断より、大仰な天邪鬼をお互い合法化する為のレトリック戦争。

 俺は自分を見ているようで、最後まで正攻法は通らないから、あなたは俺に対する評価を、美学は良好、暫定嫌悪で遅延し続けた。宙ぶらりんの関係性程度なら、「控えめで相対的」と留保できるくらいには成熟してたから、内心距離を置いて酷く焦燥しながら安心していた。

 すでに満身創痍で紙を取れば、お手軽な顔をした、後から暴力が知らされるタイプの仕事が一行だけ。byアビー。ジーザス。俺のプリンターの脆弱性を踏み、一枚無駄に紙を使ってやろうという性根の悪さ。抜群に冴えている。

 ちょっとした金稼ぎの免罪符にしては、損切りに失敗しているアイツとの死んだ関係性が嫌になる。それは愛情めいたクールだから。

 例の――数だけあるタイプの死んだウォレットの回収。嫌な汗がすっきり乾いて、さっき飲んだコークの炭酸の偽物の苦さみたいなイメージと、アイツの整ったフェイスラインが脳裏に過った。ブルー、まだお前の出てくるところじゃない一際イエロー。盛った相手に委ねて最後の倫理を安値で売ってくる、本当に、経済的な、女、俺はあの卑怯な女をよく知っている。

 ツー・ホップして、浴槽に意識が飛んだ。明日も抜群のイエロー。お前はもっとジューシーなチキンに値する。


2. ストックホルム症候群と新鮮なミルク

 いつも踵を俺の肉体だと同定できなくなってから目が覚める蟻走感。カジュアル・グリーンはお嫌い? へんぴな田舎へ、ようこそ新世界。良くも悪くも平均的な太平洋時刻14時。壁紙が茶色くて気に入らない、それが俺の朝だった。

 ニガヨモギ、語源辞書、ミートパスタが並ぶ土塊の窮屈なテーブルに身を寄せると救急車が家を横切った。ショット一杯のアブサンと「宜しくやる」と原因不明のグリッチノイズ。走査感が視界と奥歯に散らついて俺が俺だと自認した。隣の怒声。

 ベッドに戻りながら、数十ドルの義体のローンで消えていく金を名残り惜しむ感情は、俺が綱渡り状態を自覚するよりも未成年者のネット犯罪の増加を危惧する議会の荒れ具合を見た方が早い。

 アブサンにキスされてから着替えを急ぐと、上品に垂れ流した音楽が俺の耳の帯域を撫で、ほら吹きの俺に慈しみを与える。透明感で7秒硬直、ウッドベースで泣ける眼球はまだリース。貸付金を緑に燃やせ、ダッグアウト。シェフを呼んでくれ!!

 嫌な汗、美醜に対するアレルギー反応、強引にフォールバックで正気に戻る。急ブレーキによってアドレナリン血中濃度が償却され脾臓に鈍痛。だからあの気に入らない茶色を殴った。音楽が変わって湿っているカーペットに倒れ込んで土足じゃないことに安心した。今日はとても憎たらしい火曜日。カリスマのグリーン、俺。冷静さ、冷静さ、冷静さ、ああ。ピーチサイエンスを信じろ、あの日とは違うんだ、まだ俺は俺でしかない。

 大抵の場合、先にモノを手に入れようとするとツケが回る。自分の神経そのものを騙す、「とてもハイテクなデバイス」の場合は、なおさらだ。

 巨大建造物が惑星を覆っても、貧乏性は人類の本能らしい。ひどく冷えた身体を抱えながら、通りを下っていく。隣の家の母親のヒステリーみたいな騒ぎを、中継で見る気にはなれない。

 旧世代から遥かに高度が上がった都市で、一番肝が冷えるのは犯罪じゃない。鋼材が街の振動で破断しないか、に収束する。前の市議会選挙で導入した中央アジア製の耐震装置がリコールされたときは、街全体が殺気に満ちていた。リコール費用は契約の隙間から、月割りで住人の積立へ降ってきた。耐震装置の故障では、まだ誰も死んでいない。書類のほうで何人か死んだ。

 今、俺が住んでいるのは、その耐震装置が唯一取り残された高層住宅を、よく見渡せる地域だ。だから、特別にインフレが凄い。どこも同じ様相だが、艦船を束ねて大陸を横断させている各国の首都よりは、マシだと思いたい。

 路上は良くも悪くも、ブルー。

 視界いっぱいの穴倉の茶色で、空気が平日の午後みたいに沈む。仕事のない地方らしく、通りの連中は吸音繊維のフードを深くかぶり、「これでマシ」って顔をしている。俺もたぶん同じ顔だ。俺たちアッパーマスは、こういう茶色から逃げられない。

 ノック、ノック、ノック。

 似たり寄ったりの穴倉の一つ、その扉を叩く。フードの内側が蒸れて、息が浅くなる。友人と呼ぶには信用が足りない。色素の薄い顔を思い浮かべた瞬間、舌が乾いた。

 もう一度、短くノック。返事は遅い。鍵の回る音だけが鈍く聞こえて、扉が少しだけ開く。隙間から出てきた手が先だった。指先は不健康な紫で、黒いネイルをしている。爪の先だけが妙に整っていて、逆に生活の荒れが目立つ。

「……何」

 男とも女ともつかない、変に心地よく不気味なヤツの声は小さい。俺は視線を上げきれず、乾いた口のまま、名乗る代わりに用件だけを言う。

素子(チップ)を取りに来た。エイラ。お前の、その、アレだ。釈放金を払ったときに、俺に黙って予備の素子を持っていったろ」

 噛みながらヤツの指先に話しかけると、彼女が顔を出してきた。深いクマの、俺そっくりの女。鏡だと脳が一拍誤認する。左右反転を期待した網膜へ、反転しない顔が押し戻されてくる。透き通った、とは言い難い、父親に似た白い肌。ぞくぞくする嫌悪感。

 彼女、父が言うには血行の悪いほう。俺の遺伝子で造られた、双子のクローンの片割れ。父が臓器不全で倒れたときに用意された、二人いるスペアの一人。

「これね、見たわよ。いつの時代の決済手法なの? それにしても、アタシみたいなクローンが知らないマイナーなプロトコルなんて、本当に掘れるの?」

 冬の寒さの顔をした下降気流で、手が冷えた。中に入れてくれ、なんて、彼女に面と向かって言えるような関係じゃないのに。

「え? じゃないわよ、お兄さん。今どき、まともじゃない署名方式の古い暗号資産なんて、誰が換金してくれるの? ってことよ。うーん、アタシには、さっぱり」

「いや、違うんだ。コイツを売るんじゃないが……いや、正確には売るんだが、これは、都合の良い財布。ちょっとしたガレージみたいに貸しておくためのさ」

「ああ、コールドウォレット」

 コートの性能が限界になったので、「大人の威厳」を見せて、もちろん、俺が小さく彼女の耳元で呟いた、我ながら皮肉だが、彼女の家に迎え入れてもらった。早く帰るつもりだったのに。

 彼女のキッチンには包丁がない。電子レンジ用の容器だけが棚に並んでいる。俺の家もそうだ。

「これ、見てよ。コンプライアンスをガン無視した、例のスローガンのお店のコーヒー!」

 コーヒーカップがガラステーブルに置かれ、彼女が騒ぐ。紫のガラステーブルを挟み、エイラなら最初に何かを自慢するだろうという予想通り、彼女が自慢げに語った。脱いだコートの置き場へ目が行き、無意識に首元の端子を触る。まるでフラット。

「事業に失敗した兄さんにしては、よくやってるって聞いたよ。レッドチーミングの仕事なんだっけ。聞いて聞いて、お兄さんの職場、試しに買ったら結構上がった」

 レッドチーミング――他人の神経に裂け目を入れて、書類にして納品する仕事。年に三度、俺のレポートで誰かが職を失う。彼女より先に熱いカフェラテに手を付けないのは、わざとだ。知ってる。俺の職場の株で妹が儲けてる。父のせいで増えた家族が、俺のキャリアの先物を買っている。配当は、彼女の住むこの部屋の電気代になる。同僚にバレたら、同情で死ぬ。

「……へえ」

「え、お兄さん、確か給料良かったんじゃないの」

「ああ、ストックオプション? まあ、あるにはあるけど」

 ポケットの中で指を遊ばせる。距離を取る癖が抜けない。エイラが笑った。俺も笑い返す。同じ筋肉が同じ角度で動くのを向かいの席で見る、その違和感の処理を、いつも俺の電脳が外注してくれない。電脳化前の俺の笑い方を、彼女が引き継いでいる。先に身体を捨てたほうが、原型を保存している。父性なんて要らない、という本心は飲み込む。

 カップには、例のスローガンの店のカフェラテ。選ばされたインスタントの味。標準偏差ゼロを目指して焙煎された、確率的な飲み物。ほら、アビーは良い女でしょ、と赤い髪の女を思い出し、俺のスカスカを飲み込んだ。

 「好きなジョークが似てるのが家族だ」――また、父が言っていた。思い出しただけで、背中に汗がにじむ。俺の繊細なプライドが認めたくないのに、変にほどけそうになる。

「あ、そういえばアビーとはうまくいっているの……って、その様子じゃ、聞かなかったほうが良かったカンジ?」

 この「血行の悪いほう」は、いつも地雷を踏む。だから完全には好きになれない。しかも自分のクローンだ。俺が普段、どれだけ同じ地雷を踏んでいるか思い知らされる。まるで、スカスカ。

「うまくいってる」

 嘘じゃない。「うまくいっている」の定義を、こちらで書き換えただけだ。仕事と同じ手つき。要件を満たせないときは、要件のほうを削る。

「ふうん」

 エイラが冷蔵庫を開け、紙パックを持ってきた。消費期限は明後日。低温殺菌、牧場の名前、朝靄の写真。角が結露で少しふやけている。

「それ入れて飲みなよ。あの店の、絶対ミルクじゃないから」

 新鮮なミルク。4度の紙の角が指に当たる。標準偏差ゼロを目指して焙煎されたほうへ、期限のあるほうを垂らすと、表面の模様が一瞬だけ崩れ、すぐに均された。均されるまでの1.4秒だけが、この部屋で確率的じゃなかった。

 冷蔵庫の扉が閉まる前に、卵のケースの横が見えた。電子レンジ用の容器。蓋の内側に結露。中で、俺の予備の素子が四つ、行儀よく並んでいる。低温で保つのは正しい。取扱説明書の通りだ。黙って持っていった物を、正しいやり方でしまってある。

 腹が立つのはそこだった。雑に扱われていたなら、まだ怒りの置き場があった。

「ねえ兄さん、ストックホルム症候群って知ってる」

「知ってる」

「この前ネットで見たの。ずっと同じ人に嫌なこと言われ続けると、その人の言い方が自分の言い方になるんだって」

 学術的には、たぶん違う。訂正しない。訂正しない理由が、まさにそれだからだ。

 俺の文法は父から輸入した。妹の笑い方は俺から輸入した。輸入超過、関税なし、返品不可。血縁というのは要するに、検疫を通さない輸送プラントのことだ。

 人質は、たいてい自分が人質だと気づく前に交渉役をやらされる。俺の仕事は、その交渉役にいちばん効く言い回しを見つけ、書類にして納品することだ。年に三度。今年はもう二度。三度目は、たぶんプリンターから一枚で出てくる。

 去年の三度目は、四十代の運用担当だった。休憩の取り方、深夜に検索する語彙、家族にだけ使わない口調。十六ページにまとめた。優秀な男だった。優秀だから、同じ穴を毎回、同じ角度で踏む。

 俺は裂け目を入れたわけじゃない。もともと開いている口を、閉じられなくしただけだ。それを裂け目と呼ぶのは、請求書の都合だ。

 一口飲む。ミルクの脂が舌の上で温度を持ち、ケミカル臭の輪郭を鈍らせた。うまい。うまいと感じた自分に、少し腹が立つ。安いもので機嫌が直る設計は、父から輸入した分のなかでも、いちばん質が悪い。

「配当ね、来月も出るって」

 冷蔵庫のコンプレッサーが鳴った。俺のキャリアの先物が、この部屋を今月ずっと18度に保っている。悪くない温度だ。悪くないと思ってしまう、この平坦さ。けれど、血行の悪いほうには、たぶん足りない。指先が紫のままなのは、遺伝じゃなくて設定の問題かもしれない。

「兄さんもさ、たまには自分の分も買えば」

 自社株。飼い葉桶に、自分で藁を足す作業。

「考えとく」

 エイラが満足そうにカップを持ち上げ、両手で包んだ。俺と同じ角度で。父と同じ角度で。三代ぶんの同じ持ち方が、紫のガラスへ三つの影を落とし、そこだけ室温が下がって見える。

 好きなジョークが似ているのが家族だ、と父は言った。似ているのはジョークじゃない。笑うタイミングだ。何を面白いと決めるかは、先に誰かが決めている。俺たちは、その決定に忠実なだけ。忠実な、しもべ。

 エイラが容器ごと持ってきて、紫のガラスへ置いた。四つのうち、一つだけ結露の付き方が違う。

「使ったろ」

「一回だけ。寒かったから」

 義体の話じゃない。素子の話だ。素子を挿して寒いと言える神経が、こいつにはある。俺の神経だ。工場出荷時は同じで、擦り減った跡だけが違う。

 常温に戻るまで挿せない。三十分。早く帰るつもりだったのに、三十分だ。可塑性がある、と朝は楽観していた脳が、この部屋では毎回、同じ形に戻る。

 ミルクは三日で腐る。腐るから、新鮮だと言える。腐らないほうを毎朝飲んでいる俺が、どちらに飼われているかは、聞くまでもない。

 カップの底に、白がまだ少し残っていた。白は、黄色になる前の色だ。


3. 丸腰の共産主義者はレトルトカレーを信じない

 三十分は、四十分になった。素子が常温に戻ったのを指の腹で確かめて、それでも挿さずにポケットへ落とした。出るとき、エイラは玄関まで来なかった。正しい距離だ。正しさばかりが、この一家の遺産だった。

 四十分ぶん、他人の家の匂いがコートの裏に残っている。

 穴倉に帰って棚から箱を取る。レトルト。箱の写真だけが不自然に赤い、実物より一段だけ幸福そうな赤。八分と書いてある。まだ温めない。腹より先に、片付けておきたいものがある。

 丸腰の共産主義者はレトルトカレーを信じない、と父はよく言った。所有を憎むと言いながら、あの人が本当に嫌っていたのは、誰が作ったか分からず、どこで温めても同じ味になる、あの均しの技術のほうだった。父は理屈を日本語で積み、照れたときだけ妙な英語で蓋をした。そう言って毎晩、赤い箱を八分温めた。俺も今夜そうする。

 好きなジョークが似てるのが家族だ、というのは正しい。似ているのは味覚じゃない。矛盾の抱え方だ。

 首の端子に素子を挿す。冷たさが一拍遅れて後頭部へ届き、舌の上に金属が湧いた。

 噛み合わせの悪いガタガタの歯列を、思春期の終わりにワイヤーで締め上げられた記憶が、舌先に金属の味として残っている。矯正の圧が骨まで届く夜は眠れなくて、鎮痛剤の苦味と唾液の鉄臭さが、口腔内で混ざった。

 あの二年間の治療費を、父は一度も口にしなかった。

 口にしない代わりに、次に造った二人には、最初から歯列の設計図ごと整えた。成長しきった骨をワイヤーで引っ張る採算の悪さを学習したのだろう。エイラも、あのもう一人も、生まれつき綺麗に並んでいる。

 俺のスカスカの黄色は、削られて、引かれて、詰め直された試行錯誤の残骸だ。あいつらの白さは、俺という失敗の校正刷りだった。

 舌で歯列をなぞると、継ぎ目が分かる。設計と修繕の差が、口の中にずっと住んでいる。だからアイツらが一方的にお兄ちゃんと呼ぶことに、居心地が悪い。それが俺にとってのアッパーマスだった。

 ターミナルを立てる。画面が緑に沈む。選んだのは俺じゃない。初回起動で降ってきた設定を、それきり直していない。直す理由を探すのを、途中でやめた。

 エフェメラルというのは、終われば何も残らないという意味だ。履歴なし。鍵はメモリ上だけ。閉じれば、同じ状態に二度と戻らない。安全のためだと説明書には書いてある。実際は、証拠のためだ。

 こちらにも向こうにも、後から突き合わせるものが残らない。齟齬が記録されない。記録されないから、幻肢痛にもならない。よくできている。

 死んだウォレット。署名方式が古い。掘るというより、三十年ぶりに腐った蝶番を動かす作業だ。ワンホップ、ツーホップ。緑の中で行列積が回る。奥歯が鳴る。

 最後の一手前で、止まった。

 あと一手が、届かない。応答が規格の隙間に落ちている。人間なら、あと一言のところで黙る、あの止まり方だ。俺の指はもう次の入力を用意していて、行き場のないまま宙に浮いた。

 繋がらないまま、公開されている一行だけが読めた。ラベル。三十年前の、誰かの手癖。

 Dogfall for old man.

 ドッグフォール。二人とも倒れて、どちらの背中も土に着かない決着。勝ちじゃない。負けでもない。引き分けと呼ぶには、両方が痛い。

 父の英語だとも、他人の英語だとも決められない。決められないものを、俺は書類では「不十分な証跡」と書く。書いた瞬間、その線はもう誰にも追われない。今まで何人ぶん、そう書いて閉じたか。

 残高は、二年ぶんの治療費によく似た数字だった。似ているだけだ。似ているだけのものに意味を見つける機能を、俺は普段、仕事で使って納品している。だから自分に使うときは割り引く。割り引いても、まだ残る。

 最後の応答を待つ姿勢のまま、脊椎が電流の側へ倒れた。落ちる瞬間、視界が一度だけ、ちゃんと青くなった。

 We, hook。皆、端子。皮膚感覚へ翻訳された白いアルコールの音で目が覚める。紛れもない失敗を逃すな、と、電流の側を通る脊椎が言う。全部シリコンになっちまえ。銀のワイヤーの残像が全身を走る。丸みを帯びた怒りのほうの素子だけが、オレンジ。

 起きたとき、ターミナルは閉じていた。閉じたというより、無かったことになっていた。緑も消えている。鍵も、経路も、さっきまで一行だけ読めていたラベルも、どこにもない。

 残っているのは、舌の金属と、瞼の裏の緑の残像だけだ。閉じた画面の色だけが、律儀にこちら側へ残る。

 証明できない。証明できないから、呆れるところまでしか行けない。二度目までは他人の嘘だった。三度目は、たぶん自分の嘘だ。

 アビーには、「失敗」と一行で送った。経路は一つ多くした。あの女の作法を、俺が使っている。輸入超過、関税なし、返品不可。

 年に三度、俺のレポートで誰かが職を失う。今年の三度目は、プリンターから来て、俺の側で終わった。ドッグフォール。二人とも倒れて、どちらの背中も着かない。冗談としては悪くない。父が生きていたら、たぶん同じところで笑う。

 箱を開け、袋を温める。八分。丸腰の共産主義者は、今夜も密封された等質を食う。

 うまい。八分、袋ごと、誰にでも同じ味。誰が何に値するかなんて、今夜は決めなくていい。父が嫌った均しは、そういうところだけ親切だ。

 口の中の銀と、爪の裏のイエロー。俺に残るのはそれだけで、あとは全部、他人の設定だ。

 惜しいところで接続できないの。アビーに頼まれて無理やり入れたエフェメラル・ターミナルのテーマはお揃いの緑。

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